完全感想を垂れ流す記事になります。最初に言っておきますがネタバレ注意です。
見てきました、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』

https://chiikawa.toho-movie.jp
信じられないくらい面白い映画で、めっちゃくちゃ出来が良い。
心にぶっ刺さって離れないんですよね。
あまりに、あまりに面白い。そしてあまりに見たものの心にしこりを残す。
子どもたちは映画館で「なんでちいかわは最後にあんなことをしたの?」だったり、
ハチワレのように「ねえ、本当に正しかったのかな?」なんて口々におうちの人と話したりしている。
そう。
こうやって「映画から現実に問いかけを持ち帰らせること」に特化した作品であり、
映画の視聴体験としてあまりに極上すぎたんですよね。
その意味で、あまりに児童文学的。最高。本当に最高。
予告を何回も見直している。まだ映画館に行ってない人は早く見て、お願いだから。記事はそのあとで読んでくれればいいから。
原作を超えるための「音響」
原作のある作品の映像化に当たっては、どんな価値を映像で付与するかを選択することになる。
今作ではそれについて、2つの方法論が最初のシーン(ウサギが寝ているところ)で示される。

俺の最推し、うさぎ。自由なところが大好き。
(https://chiikawa.toho-movie.jp/atm/characters.html より引用)
一つは、カメラと演出。
TVシリーズとは異なり、立体的にちいかわたちを見せますと言わんばかりに、カメラがよく動いて、まるっこいうさぎが描かれる。
うさぎ推しなのでまずここでガッツポーズしたのは言うまでもない。ほんとうにかわいい。
もう一つは、音響。
うさぎが寝っ転がる草原では風がそよぎ、草がすれる音まで聞こえて、とにかく音響がリアル。
これから音に注意して観てくださいね、という開幕宣言。もとい、挑戦状。
本作は音の使い方がうまい。
音楽がいいのは言うまでもないんだけど(うさぎラップ最高)
なんといってもSEの立体感。
もう全員が感じたと思うけど、終盤の撲殺のシーンの音の重みでその演出は極まる。
『コナン』でも撲殺にあんな生々しい音載せないだろ。
(パンフレット情報によると、ナガノ先生もあのシーンの音が大好きだそう…)
そしてもう一つ音に関しては、
あまりに当たり前に受け入れていてしばらく気付かなかったんだけど、
セリフに頼らないストーリーテリングが多用される。
だって、ちいかわの世界ではしゃべるキャラクターのほうが少ない。
主人公のちいかわはしゃべらないし、本作の物語の(もうひとつの)中心であるヒトハとフタバも、しゃべらない。

なんかしゃべらなくていい演技で魅せるやつ
(https://chiikawa.toho-movie.jp/atm/characters.html より引用)
だから、クライマックスではセリフがほとんどない中で苦悩や葛藤、逡巡と決断が描かれる。
これこそ映画の演出だよねぇ…(恍惚)
声がなく物語るという意味で、『砂の器』との類似性を指摘する声もあって膝を打った。
言葉を使わず物語を描くのは映画としてとても高度で難しい。
だけど、成功すると、私の心を強く打つ。映像の持つ強み。
原作の時点でも、クライマックスのシーンのちいかわの決断には泣かされたけれど、
映画ではその感情の動きが一層声にならない声として心の中で暴れだす。
セイレーンとの大立ち回りではなく、ちいかわの決断こそがこの映画の最大のクライマックスになっているんですよね。
音を最大の武器にした映像化。
原作の翻案として、50000000000000点です。
神話的世界観:恵みと災いをもたらす神と、人
この物語の中心にいるセイレーンは、神話的存在として、今まで『ちいかわ』に登場した怪異以上に超常性を持っている。

なんかざんこくでおそろしいやつ。
(https://chiikawa.toho-movie.jp/atm/characters.html より引用)
さまざまな人魚伝説の複合として作り出されている。
(散々言われているように八尾比丘尼伝説からの引用もあると思う)。
だけど、物語上の描かれ方は、一方では島に恵みをもたらし、もう一方では災厄ももたらす。
恵みと災いの両方をもたらし、善悪では測れない、日本的な意味での「神(カミ)」だ。
『もののけ姫』のシシ神(=デイダラボッチ)や、ゴジラ(GODZILLA)の文脈でも語られる存在であり、本作を怪獣映画たらしめる存在でもある。
とにかく、超越的な存在だ。
それでいて対話可能(説得可能とは言ってない)なあたりも、神話的。
あげくに「永遠の命」まで出てくる。
今までも凶悪で悪辣な怪異(拾魔のあの像とか、「あ・く・む」のあいつとか)はいたけど、
今回は超越性という意味で露骨に一歩踏み出して、神話の世界に踏み込んでいる。
そして描かれるのは、超越的存在(=自然)が人に与える災いの側面。理不尽な運命。
愛する人を奪われる。そして、その死ですら、超越的存在(=自然)にとっては取るに足らない。
セイレーンは誰かを自分が殺したことにすら気付かないし、気にも留めない。
そんな理不尽な怒りを自然へ向けて報復に出ても、残念ながらそこには罪と罰しか待っていない。
そして人魚を殺されたことに怒り狂うセイレーン自身も、救われない存在であることが示唆される。だからハチワレも討伐していいのか最後まで悩むわけで。

セイレーンとちがってあんまりかわいくない(主観)
(https://chiikawa.toho-movie.jp/atm/characters.html より引用)
誰にとってもあまりにも救われない世界であることが、これでもかと描かれる。
その意味で一番近い味の作品は『SIREN』かもしれない。

人魚伝説、日本の神話的世界観、「どうあがいても、絶望。」
最悪の世界でそれでも人間らしさを
そんな世界でずっと、正しい行いしようとあがき続けたのが、ちいかわだった。
ちいかわだけかどうかはわからないけど、少なくとも映画の中ではずっとちいかわは、正しいことをしようと葛藤し戦い続けた。
圧倒的に強いセイレーンに心折れることなく、最後のひとりになっても絶対にあきらめず、仲間を助けに行く。
擦り切れる寸前に島二郎という助けを得ることができ、
セイレーン打倒の奇策に思い至り、実行に移す。
いかにも主人公的活躍。
だけど、ちいかわが本当の意味で主人公になるのはクライマックスのシーンだ。
「うろこ」という二人の犯人の決定的な証拠をつかみ、人魚殺しの犯人に気づいた。

最愛の人が理不尽に殺されたとき、自分は違う選択ができただろうか?というデカすぎる問いかけ
(https://chiikawa.toho-movie.jp/atm/characters.html より引用)
だけど、ちいかわは覚悟して手を握り合う二人を前に、(どこまでかはわからないけど)事情と心情を察し、
何を選んでももはや誰も幸せにならないと理解したうえで、
真相をだれにも明かさなかった。
ただ一人口をつぐんで、二人の幸せを尊重する選択をした。
この優しい選択こそが、この物語の核心だった。
ずっと持ち続けた絆:ポシェット
映画を通して象徴的なアイテムであり続けたのが、ちいかわのポシェットだ。
ちいかわにとってハチワレとの絆の象徴であり、
ちいかわが「大切な人と共に生きる喜び」を知った証でもある。
ピンチを打開できたのも、ポシェットの中に飴が入っていたからこそ。
そして物語の重大な決断の局面でポシェットの中にあったのは
ヒトハとフタバの罪の証である「うろこ」。
そして「うろこ」もまた、
ヒトハとフタバが「大切な人と共に生きる喜び」を手放せないがゆえに生まれてしまったもの。
ポシェットの中で、ちいかわの幸せとヒトハ・フタバの幸せが部分的に重なった。
だからちいかわは、ヒトハとフタバを前にしたとき、ポシェットを強く握りしめ、「大切な人と共に生きるにいる喜び」を知るものとして、
彼らの「大切な人と共に生きる」権利を尊重する決断に至った。
その時のちいかわの心情を我々が知ることはないが、
ポシェットを強く握りしめた手と、ヒトハとフタバが強く握った手に目をやったことから、ちいかわの葛藤を推し量ることができる。
二人の罪をきっかけに、島民はセイレーンに仲間を消されてきた(間違いなく捕食されており、生きて帰ることはない)。
セイレーンも、人魚を失った。
そんな状況で、すべての謎を明らかにすることもできたが、ちいかわはそれをしなかった。
なぜなら、すべての選択は不正解であり、選択の結果としてだれかを幸せにすることはできない。
それでもちいかわは、自分の幸せを通じて誰かの幸せに想いを馳せ、一つの決断をする。
それはおそらく、優しさと呼ぶべきものであり、残酷すぎる運命を前にあまりに尊く輝く。
ちっぽけな存在は世界を変えられない。
それでもだれかを思いやることだけはやめなかった。
この映画において、それこそが主人公の資格だった。
誰も救われない世界で
この映画には勝者がいない。はっきり言ってバッドエンドの部類。
犠牲者は帰らない。
ヒトハとフタバの罪にはとても残酷な罰、永遠の暗闇が待つ。
セイレーンは人魚を失ったまま。
島の人々は失った人を探し続ける。
セイレーンを失った島は、豊かな恵みを失い「貝汁」だけになることが示唆される。
(「島のうた(島二郎ver.)」で、あれだけ豊かだった島の名産が全部貝汁になってることで示唆される。原作からだけど、なんちゅう手法の演出なんだよ)
ハチワレは無力をかみしめる。(これはこれで次の展開への嫌な布石)
ちいかわの心にもきっと傷は残った。
島二郎は…まぁいいや。
基本的に誰も幸せにならなかった。それがこの世界。
それでも優しさを示すこと
では、この世界で人はどう生きるのか。
ちいかわが示した答えは驚くほどシンプルだった。
優しさ。
世界が報いてくれる保証はない。
誰かが救われる保証もない。
それでも、
優しくあることだけは、自分で選べる。
日常に帰るちいかわ。「おみやげ」とともに。
でも、この映画が本当にすごいのは、ここからなんです(マグマ)
すべてが終わり、日常に回帰するまでが描かれるんですね。
船で帰る途中、また美味しいものを食べる「いつもの日常」の話をして終わる。
旅は終わる。
ちいかわたちは日常へ帰っていく。
おみやげを片手に。
おみやげを持って日常に帰ることを、寂しさと希望を以て描いたのがエンディングテーマ「机さする」
覚えてても 忘れそうでさ
書いとこ こわいから
覚えてても 忘れそうでさ
撮っとこ こわいから
旅の中で得たものをおみやげといっしょに持ち帰り、今後の日常でも手放さずにいられるような祈りの歌だ。
あまりにいい曲過ぎて、何回も聴いてる。
これから先の人生、旅行に行くたびに帰りにこの曲を聴いて情感に浸ることが確定した。
この旅で得たものは、日常に持ち帰ってずっと手放したくない、という純な祈り。
ちいかわは、島から持ってきてしまった「うろこ」を最後に手放してしまった。
だけど、持って帰るものはあるよね、得たものはあるはずだよね、という願いのような歌。
私たちも日常へ帰る
いろんな葛藤や感情を抱えたまま日常へ帰るちいかわ。
いろんな葛藤や感情を抱えたまま映画館を出る私たち。
この二つは完全にアナロジーだ。
「どうするのがよかったんだろうね」
ちいかわは悩みに悩んで一つの決断を下した。
ここから先は、我々は残酷な運命を前にして、ちいかわのように優しさを選べるのだろうか。
そんな問いかけをされているように感じてならない。
そしてそんな問いにぶつかったとき、
苦悩と戦いの果てにポシェットを握りしめて優しい決断をすることができたちいかわが、
本当にすごいやつに思えて仕方ないんですよね。
我々の世界にセイレーンはいないけれど(いないよね?)、
残念ながら、自然の猛威は今も厳然と存在するし、
運命はずっと理不尽だし、大切な人との別れも絶対に訪れる。
ちいかわたちが目の当たりにしたのと同様、我々の世界は残酷で不正解だらけなのだ。
だから、この映画が最後に問いかけているのは、
「そんな時あなたならどうする?」「優しい決断を世界に示せるだろうか?」
ということに思えてならないんですよね。
別の意味での「君たちはどう生きるか?」といっても過言ではない(過言)
今度は君が、残酷な世界に優しさを示せるだろうか
世界は残酷だ。
どの選択をしても間違いかもしれない。
誰も救えない日もある。
それでも、
人を思いやり、
優しさを示すことだけは、
決して間違いではない。
それこそが、
誰かをこの世界の主人公たらしめる。
映画『ちいかわ』は、かわいいキャラクターたちを通して、そんな途方もなく大きな問いを投げかける作品だったし、それをこんなに面白い作品にまとめ上げるのはやっぱり離れ業だと言わざるを得ない。
説教くさくないのがとにかくすごいんだよ。エンタメ大作に仕上がっていることが。
ナガノ先生の作風だと思うけど、とにかく受け手の感性を信用して委ねていて、それが映画全編にわたって表現されていて、とにかく幸せな作品だな、と思いました。
マジで、最高の映画でした。
しかしなんで「なんか小さくてかわいいやつ」にそんなデカいメッセージを込めるんですかね(困惑)。

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